人的資本経営の本質を問う  (第1回) 

オフィスでの会議に従事するマルチタスクのクリエイティブな人々のグループ。眺めはガラス。

競争優位性の源泉として捉えるべき「人的資本」

1. 人的資本経営が経営課題となっている背景

近年、「人的資本経営」というワードが注目を浴びている。人材版伊藤レポート2.0や人的資本可視化指針の公表など、政府が主導となって人的資本経営の実践や人的資本に関連する情報開示が求められている。

なぜ、ここまで人的資本経営が注目を浴びるようになったのか。わが国では、働き方改革やサステナビリティ経営の文脈で語られることが多い。しかし人的資本経営の取り組みの本質を捉える上では、この一連の流れが世界的な潮流を汲んでいることを認識する必要がある。

米国では、2020年8月にSECが非財務情報開示の項目(Regulation S-K)を変更し、上場企業に対して10-Kにおいて人的資本(HCM:Human Capital Management)の開示を義務化した。欧州でも、2014年から非財務情報(NFRD:Non-Financial Reporting Directive)を開示することが義務付けられていたが、2021年には人的資本を含むESG・サステナビリティ関連の情報開示(CSRD:Corporate Sustainability Reporting Directive)が制定され、ガイドラインや指針という任意的な開示から、開示項目や内容の具体化、義務化、適用企業数の拡大などの方向へと加速している。

人的資本経営に関する世界的な潮流は、企業の時価総額に占める無形資産比率の高まりに端を発している。経済産業省「通商白書」によると、米国企業(S&P500)では企業価値に占める無形資産の構成比率が80%を超え、欧州企業(S&P Europe350)においても70%を占めており、無形資産活用の巧拙が時価総額に大きな影響を与えることがうかがえる。このように、企業経営における価値創造の源泉が、有形資産から無形資産へ転換していることは、すなわち企業の持続的な競争優位性の確立に無形資産が決定的な役割を果たしていることを意味する。

競争優位性の源泉が無形資産へシフトするゲームの変化を受け、無形資産の中でもとりわけ重要な人的資本及びその活用のあり方が着目を浴びている、というのが人的資本経営に関する世界的な潮流の背景である。

そのような背景を踏まえると、人的資本経営が目指すのは、人的資本の活用を通じた持続的な競争優位性の確立であり、その意味では人的資本経営への取り組みは、人事部門だけで取り組むべき個別の人事課題などではなく、経営層自らが主導して試行錯誤すべき最も重要な経営課題であり、稼ぐ力をいかに強化していくか、という観点から推進されるべきものである。

2. 競争優位性の源泉としての人的資本

2-1.人的資本の定義

人的資本については、様々な研究がなされているが、学術的には広義と狭義の大きく二つの定義がある。狭義では、人的資本を個人に内在する知識・スキル・能力(=KSAs/Knowledge、Skills、Abilities)と位置付ける考え方である。一方の広義では、個人のKSAsに加えて、モティベーションやWell-Being(心理面・健康面)、就業環境にまで拡大して捉える考え方である。

製造資本や財務資本など他の資本と異なり、人的資本は投資の巧拙によってKSAsを磨き続けることができる点や金銭的報酬/非金銭的報酬に応じて創出される行動や成果が左右される性質があり、投資のインプットとアウトプットの関係が非対称な可変資本としての特長を持つ。人的資本を競争優位性の源泉として捉えるならば、その可変資本としての特長を踏まえる必要があり、人的資本経営においては広義としての人的資本の定義が適合する。

 

2-2.人的資本と競争優位性

競争優位性の源泉が無形資産へ転換していると言及したが、代表的な無形資産には人的資本、知的資本、自然資本、社会関係資本の大きく四つがある。その中でも、なぜ人的資本が持続的な競争優位性の源泉として重要である、と言えるのか。

持続的な競争優位性の源泉には、経済的な価値をもたらし(Value)、希少性があり(Rareness)、模倣困難性が高く(Imitability)、最大限に活用するための組織が備わっていること(Organization)が要件として求められる(VRIO)。人的資本は他の資本と比較して、特に模倣困難性の要件を満たしている。具体的には、獲得までに時間を要するという時間的制約や、経路依存性が高く、競争優位性の発揮に至るまで複雑な因果関係を持つ点などが挙げられる。また、現代において「両利きの経営」が求められている企業は少なくない。新たな組み合わせ(好奇心や関連付ける力)や未知の領域での挑戦(成長)、多様なものの見方や考え方(ダイバーシティ)など、「知の探索」の実践においては優れた人的資本が重要な役割を果たす。現代の企業経営における競争優位性の確立に向けて、人的資本は極めて重要な資本として位置づけられる。

 

2-3.人的資本経営の戦略的な意義

人的資本経営の意義を捉えるためには、経営戦略の観点から理解を深めることが有効である。経営戦略には、競争優位性の源泉を企業の「外部」に求めるアプローチと、企業の「内部」に求めるアプローチの二つがある。競争優位性の源泉を企業の外部に求めるアプローチは、ポジショニング理論(SP/Strategic Position)と呼ばれ、代表的な研究者はマイケル・ポーターである。一方、企業の内部に求めるアプローチは、ジェイ・バーニーが代表的な研究者であり、RBV/OC理論(Resource Based View/Organizational Capabilities)と呼ばれる。

卑近な例を挙げれば、大リーグで活躍している野球選手が高額の年俸を得られる理由(=高いパフォーマンスを得ている本質的要因=競争優位性)を考える時、前者のポジショニング理論では高額な報酬が得られやすい米国のマーケットを選択していることに主たる要因を求める。実際、世界的なアスリート・金メダリストであっても他のスポーツでは、米国大リーガーほどの報酬を得てない選手も数多くいるからである。一方、後者のRBV/OC理論では他の選手にはない卓越した身体能力や特質を有していることに主たる要因を求める。例えば、全ての大リーガーが何十億円もの高額年俸を得ているわけではないとRBV/OC理論は考えるのだ。 

VUCA(Volatility-Uncertainty-Complexity-Ambiguity)と呼ばれる時代においては、戦略の陳腐化や見直しのサイクルが速い。そのため、外部環境を見据えて入念に精度の高い戦略を時間をかけて立案するのではなく、立案した戦略を現場レベルで柔軟に見直し、修正できる組織のケイパビリティが求められる。即ち、戦略レベルの軌道修正を現実の変化に即応して行い、組織の向かうべき方向を新たに定義することが出来ることが人材をどれだけ多く組織内に育成・リテンションできているか、が競争優位性の源泉であるのだ。昨今の不透明な経営環境においては、内部ケイパビリティに基づく競争優位性を構築することを志向するRBV/OC理論がより有効であり、自社内部の優秀人材を発掘し、様々な経験を重ね、卓越した経営人材へ育てる、という人的資本を起点とした経営は戦略的に、特に現代の経営環境においては高い合理性があると言える。

ここまで人的資本経営が注目を浴びる背景として、企業競争におけるゲームチェンジ、即ち競争優位性の源泉が有形資産から無形資産、中でも人的資本にシフトしていることを説明してきた。そして、人的資本経営の戦略理論におけるバッググラウンドにも言及し、VUCAと言われる現代の経営環境においては、優秀人材の厚みが企業競争力に直結するという点についても述べた。次回の後編においては、人的資本経営を実際に推進していくにあたってのポイントについて解説を試みたい。

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井上 康晴
喜代永 響
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