スタートアップ買収におけるHR論点(後編) 

25 5月 2021

事業会社によるスタートアップの買収

事業会社によるスタートアップの買収動向に注目している。最近の報道によれば、特に米国で急増していた特別買収目的会社(SPAC)を用いた上場に対して当局からの監視の目が強まっているようだ。これは、スタートアップ企業にしてみれば、Exit先として事業会社に買収されることの相対的魅力が再び高まることを意味する。

一方の事業会社は、資本効率の改善とイノベーションの追求という市場からの厳しい要求にさらされており、成長期待の大きいスタートアップを買収することでその回答としたいとの考えがある。翻って、スタートアップ投資家の立場としても、煩雑な上場準備を待たずに早期に投資回収を進められるというのは魅力的に違いない。今まさにこれらステークホルダーの思惑が一致する環境が整いつつあり、今後事業会社によるスタートアップの買収案件はますます増加すると筆者は見ている。

前回の記事では、事業会社がスタートアップ買収検討をするにあたっての留意点や考え方について述べた。今回は、買収を前提としたデューデリジェンスを実施する際の留意点について述べたい。

スタートアップの人事デューデリジェンス

最近はスタートアップでも上場企業をはるかに超える企業価値を持つとされている企業もある。そうした大規模案件では、社内決裁・稟議の都合もあるので、自ずと人事デューデリジェンスもフルスコープで実施することになるだろう。しかし、対象会社がいわゆる小規模企業であった場合でも人事デューデリジェンスは必ず実施した方が良い。フルスコープで実施しないにしても、少なくとも「コンプライアンス」と「重要従業員の見極めとリテンション」は必須科目と考えるべきである。

コンプライアンス

まず、ほとんどのスタートアップにおいて、人事機能は弱い。投資家から必死に集めた資金を最大限効率的に活用することが求められる中で、コストセンターである間接機能はできるだけ最小化するように圧力が掛かっているためだ。人事そのものをビジネスにしていたり、CEOが人事に造詣が深かったりする例外を除けば、人事面での整備は大きく遅れている。

ところが、人事デューデリジェンスが始まってVDRが開くと、思っていたより規程がそろっている…というのはよくある話である。ここで、油断は禁物である。大きな事業会社の目に留まるほどのスタートアップであれば、IPOを並行して検討している(あるいは、投資家に検討させられている)ことは珍しくなく、形式的な整備だけがなされている可能性があるからだ。IPOの準備は1年程度の急ピッチで進めることが多いため、それ以前の取り扱いにはかなり高い確率で問題が見つかる。日本で典型的なのは就業規則の不備、時間外手当の不支給といった問題であるが、特に未払い賃金の請求権は2年(2020年4月以降の発生分については当分の間3年。既に5年まで延長されることが決まっている)となっており、従前の運用に問題がなかったか確認する必要がある。この辺りは、日本以外でも同様で、労働法制のポイントとなるところは押さえておきたい。

キーとなる従業員の見極めと離職リスクへの対応

どの買収案件でもキーとなる従業員のリテンションは重要課題であるが、将来の成長期待を買うに等しいスタートアップの買収では、なおのことである。

ご存じの通りスタートアップでは、現金流出を抑えつつ、必要な人材を確保するための手段としてストックオプション等の株式報酬が活用されている。条件によってはクロージング直後の売却・行使に制限がある場合もあるが、買収の成立以降、各社員がいつどの程度の精算金を受け取るのかは当然把握しておく必要がある。

特に創業メンバーを中心に精算金が十億円単位に上るような場合は、そのままサイニング・クロージングを迎えると買い手にとって極めて無防備な状況を生むことになる。早い段階からリテンション施策の検討を始め、サイニングまでに必要な従業員と継続勤務の合意を取り付けておくことが強く推奨される(ここでは具体的な方法は詳述しないが、難度の高い交渉を経てリテンションに成功した事例はある)。

PMIにおける人事・組織の重要性

特にスタートアップのPMIでは人事・組織面での取り組みが案件の成否を分ける重要なファクターになる。スタートアップが大企業である事業会社の目に留まり、買収検討の対象となったのは、そこに極めてユニークな何かがあるからで、それは多くの場合その会社の人材に紐付いているからである。

ところが実際には、自社にない異質なものを取り込むものと買い手が身構え過ぎてしまったのか、買収対象をそのまま未消化のまま保全してしまい、思ったような成果が出ていない例も少なくないようだ。PMIでは、HRデューデリジェンスで発見された必須科目の問題点をクリアするのは当然として、買収目的達成に向けて必要な人事・組織上の施策を手加減せずに推進することが肝要である。

著者
野坂 研

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