新たな章のはじまり

知彼知己、百戦不殆 ー福利厚生改革のファーストステップー  

10 9月 2025

雇用の流動化によって、人材獲得競争は激化し、ますます従業員への「提供価値」の重要性が高まっている。賃上げも従業員提供価値を高める1つの手法だが、総報酬の一部分である福利厚生も従業員提供価値の一翼を担う存在として注目を集めている。

マーサージャパンでは、2025年4月に『優秀人材を惹きつける福利厚生戦略 成功事例と実践ガイド』を出版し、5月に開催した出版記念セミナーには500名以上の登録があり、当日は400名以上の人事担当者にライブでご参加いただいた。 

セミナー後の視聴者アンケートでは、「福利厚生改革の進め方」に関する記載が多く、中でも、改革を進める第一歩にあたる現状把握の難しさに関するコメントが目立った。福利厚生は、住宅支援や両立支援、リスクへの備え等、さまざまな制度の集合体である。そのため、現金給与とは異なり、競合他社と比較してどのような福利厚生制度が優れているか、という客観的な評価は難しいケースが多い。この現状把握に行き詰まると、当然その後の改革への道筋も遠くなってしまう。 

福利厚生制度改革の難しさ

多くの人事担当者が頭を悩ませる福利厚生制度改革の根底にあるものは何なのだろうか。

一つはその複雑さにあると考えられる。上述の通り、福利厚生とは、各企業が提供する非金銭的な制度群の総称を指す。同じ「福利厚生」でも、各社ごとに提供している制度やその範囲は異なる。

また、福利厚生は制度「群」であり、提供主体も多岐にわたる。福利厚生ベンダーもあれば、共済会、保険会社が提供主体になることもあるため、人事担当者でさえも、全体像をつかむことが困難である場合が多い。さらに、全体像をつかめないまま、従業員からの個別の変更要請や労働組合との折衝の中で、その都度追加や変更を繰り返し、歴史遺産のように複雑な制度群になっているケースもある。建物で例えるなら、増改築を繰り返し、どこが母屋か分からない状態だ。

こうした福利厚生の現状について、2023年1月に筆者が執筆したBig Picture コラム、「今求められる「戦略的」福利厚生の展望」では福利厚生の全体的な視座を持ち、なおかつ上位の人事戦略と連動した「福利厚生戦略」の必要性を訴えた(図1参照)。本稿では上記コラムへの反響やセミナーでのアンケートを踏まえて、「福利厚生戦略」の必要性から一歩先へ、具体的な「福利厚生の現状把握」の手順についても概観したい。

図1. 福利厚生戦略を中核に据える理想的な福利厚生のあり方 

出所: マーサー マーシュ ベネフィッツ(マーシュ ジャパン)

福利厚生制度の現状把握の要諦 

コンサルタントの立場から、これまで各社制度の最適化支援を行う中で、福利厚生の現状把握の要諦は【知彼知己、百戦不殆(彼を知り己を知れば百戦あやうからず)】という言葉に言い表せるのでは、という考えに行き着いた。この言葉は、孫子の『兵法』からの引用だが、福利厚生になぞらえれば、「競合他社や自社の従業員を深く理解すれば、従業員獲得競争でも負けることのない従業員提供価値を確保できる」とでも言えるだろう。

福利厚生の現状把握で重要な点は【知彼知己】である。

ここでの知彼の「彼(=敵)」は、「採用上の競合他社」を表す。昨今では総報酬の市場ベンチマーク分析は一般的になりつつあるが、福利厚生においても市場ベンチマーク分析に基づく、自社福利厚生の競争力の把握は肝要である。実際に、求職者が転職先を決める最終段階でも、子育て支援の充実等の働きやすさ」決め手となり、入社する企業が選択されるケースも少なくない。労働人口の中でも、育児や介護等、さまざまな家庭事情と仕事を両立する人が増えれば、自社福利厚生の市場ベンチマーク把握は従業員提供価値を設計する上で外せない要素となる。さらに、あえて競合他社ではなく、採用上の競合他社と記載したのは、ITエンジニア等をはじめ、業界を問わず必要とされる人材は増加しており、従来の同業他社よりもその範囲は広いためである。

次に、知己の「己」は、福利厚生の文脈で「自社の人事戦略」と「従業員」を指す。そして己を深く理解する上では、いくつかの方法がある。第一に、現在の福利厚生への利用状況/対象者の把握である。少なくない福利厚生費を投下しながらも、利用対象者が限定されている制度は、受益者の偏りを生む。それが、会社が提示する両立支援等の戦略的に提供している領域であるなど、納得できる説明なく発生している場合には、従業員の不満にもつながりやすい。

そして、己を理解するもう一つの方法は従業員サーベイだろう。エンゲージメントサーベイを定期的に実施している企業はあるが福利厚生制度改革のヒントになる設問を含めているケースは少ないのが実態だ。福利厚生に関する従業員サーベイにおいて重要な点は、専門的な知見を用いた綿密な設計である。事前に目的や方向性を人事部が主体的に定め、エンゲージメント指数との相関を判断できる設問を入れ込むことや、分析時に従業員の家族構成等を元にペルソナをいくつか設定し、満足度や認知度を把握できるようにするなどが必要である。昨今では自由回答コメントに対してテキスト分析を行い、属性データと親和性の高いワードを抽出することもできる。

自社の従業員が求めるもの、自社が採用上の競合他社と比較し、どの部分が優れているかの解像度を上げることが、福利厚生の現状把握の要諦である。

知彼知己、百戦不殆 ー理想的な福利厚生制度の構築のためにー 

ここまで【知彼知己】をキーワードに福利厚生の現状分析の方法を概観してきたが、マーケティングでも使われる「3C分析」のフレームワークにも落とし込める。3C分析の3つのCはCompetitor(競合)、Customer(顧客)、Company(自社)であり、福利厚生の設計ではCustomerは自社の従業員を指し、Companyは現行の制度群や人事戦略等の福利厚生戦略を規定する上位概念のような抽象的なリソースを指す。以下に、現状把握のフレームワークと必要な要素をまとめた(図2参照)。 

図2. 福利厚生制度を評価/分析するための3つの視点 

出所: マーサー マーシュ ベネフィッツ(マーシュ ジャパン)

最後に、福利厚生改革を進めるにあたって、自社の経営戦略と整合した福利厚生であるかという点を強調したい。競合比較や従業員の分析は、あくまで複雑化した福利厚生に対して解像度を引き上げる一手段に過ぎない。既得権者や経営陣も納得できる大義名分も必要だ。現時点でつかみどころのない福利厚生だからこそ、企業としてのメッセージ性や変革への大義名分に立ち返るプロセスが最も重要なのである。

【知彼知己】、つまり精緻な現状分析を基盤としつつ、企業としてのメッセージが伝わる福利厚生戦略を持つこと、それこそが激化する人材獲得競争において【百戦不殆】な優位を築く王道だろう。

著者
山浦 拓

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