新たな章のはじまり
「推し」に学ぶ 感情的価値を高める物語の力
25 9月 2025
感情的価値の位置づけ
労働市場が流動化し人材獲得競争が激化する中、日本企業においても優秀な人材を惹きつけ、選ばれるために、EVP(Employee Value Proposition)への関心が高まっている。EVPとは企業から個人に対する訴求価値の体系で、報酬や福利厚生からなる契約的価値、キャリアや生活の質に関わる経験的価値、組織との心理的なつながりを意味する感情的価値で構成される(図)。このなかでも感情的価値は、制度改定や人事施策を通じた単発的な対応では、訴求しにくい領域である。
感情的価値をいかに育み、社員や採用候補者とのつながりを強化していくのか。本稿では、近年広がりを見せる推し活にヒントを得ながら検討する。アイドルやアニメなどのファンは、組織ではないにもかかわらず、「推し」の歴史や成長過程といった物語に共感し、目標を共有し、まるで一つの擬似組織のように機能している。推しはどのように人を惹きつけ、感情的なつながりを築いているのか、企業のEVP向上に活用できる要素を探る。
図. EVP: Employee Value Proposition
感情的価値を高めるアプローチ
はじめに、感情的価値を高める上での代表的な方向性を紹介したい。
まず「パーパスへの共感」の醸成である。組織として社会に対してどのような価値やインパクトをもたらしたいのかを明確にし、社員が「自分の個人的なビジョンと重なる」と感じられるようにすることで、誇りや共感を喚起する。
リーダーシップチームへの信頼感や公正さ・インクルージョンも、感情的価値の前提として重要となる。経営層や管理職が一貫したビジョンを示し、誠実で信頼できる人間だと感じられること、多様なバッググラウンドを持つ社員が尊重されていると感じられることは、組織に対する帰属意識や、誇りの土台となる。逆に、トップへの不信感や、不公平・排除の感覚は、感情的価値を著しく損なう。
また、社員同士のコミュニティ強化も有効である。業務上のコミュニケーションの改善や、部活動、ボランティア活動、属性の近い社員同士をつなぐ活動などを通じて、帰属意識の土台を形成する。
そして、本稿で着目するのは、「物語への共感」の醸成である。組織の変遷をストーリーとして共有し、社員をその共演者として位置づけることで、「自分もこの歩みの一部である」という一体感を醸成する。企業が掲げるパーパスが通常、結晶化された概念や標語であるのに対して、物語は具体的な出来事や経験を通じて語られるため、より感情移入しやすく、社員の感情に直接働きかける力を持つ。
人を惹きつける「物語」の要素:アイドルから考察する
ここで、アイドルグループSnow Manの事例から、物語の持つ力を紹介したい。彼らは結成から長年にわたって、周囲から「売れない」と言われ、後輩グループのバックダンサーや裏方に徹するといった苦い経験をしている。しかしそのなかでも、真摯に仕事に向き合い、信念を持って自己変革を続けた結果、今や年間売上150億円超を誇るグループへと成長している。この物語はファンの間で繰り返し語り継がれ、共感をよび、彼らを推す一つの大きな動機となっている。
また「ファンもグループの一部である」という趣旨のスローガンを継続的に発信することで、「自分もこの成長の物語の一員である」と感じさせ、傍観者ではなく共演者としてファンを巻き込むストーリーテリングが行われている。
こうした物語の活用と共演者としての巻き込みは、企業における感情的価値の向上にも同様に有効ではないだろうか。
企業における「物語」の活用
実際の企業でも、物語を通じて感情的価値を訴求する例がある。
先般、伊藤忠商事の入社式で社長が新入社員に送ったメッセージが話題となった。まず創業時から脈々と受け継がれる企業理念に触れた上で、自社が非財閥系、かつ少数精鋭でありながら、幾多の困難と挑戦を経て、業界トップを争う企業へと成長を遂げた歴史を紹介。そして、その歩みを実現したのは、一人ひとりの社員であり、これからの未来を切り開くのは皆さん自身である、といったメッセージが送られている。「組織の歴史」という大きな物語のなかに、聞き手である新入社員を共演者として巻き込むストーリーテリングである。このあいさつは当時SNSでも話題となり、社外からも多く感動の声が寄せられた。
こうした経営トップによる発信だけでなく、様々な社員の挑戦の物語を、社内外に共有するアプローチもある。社員自身が対外的に体験談を語ることで、物語の共演者としての自分をより実感しやすくなる。また、顧客や社会との関わりを物語化することも有効だ。顧客・消費者の視点から自社製品やサービスがどのように役立っているかを、具体的エピソードとして語ってもらうことで、社員の共感や誇りの醸成に働きかける。
おわりに
もっとも、物語の活用には注意も必要だ。価値観を押し付け、熱狂を強要すると、かえって意欲や一体感を損なうリスクがある。冷静に働きたい人や距離をおきたい人を尊重し、社員が自分の価値観と物語を自由に接続できる余地を残すのか、あるいは、物語をあえて強調し、それに強く共感する人材だけを惹きつけるのか、目指す組織像を踏まえた検討が求められる。
多くの企業がパーパスを掲げるようになった今、物語をどのように紡ぎ、社員をその共演者として巻き込むかは、EVPをさらに高めるための一つの視点となり得るのではないだろうか。