「1億円の壁」は突破できる
25 8月 2025
「この改定案、良いと思うよ。でも……1億円は超えたくないんだよね」
ある大手上場企業の社長に対して新しい役員報酬制度に関する説明をしていた終盤、ふと漏れた一言に場が静まり返った。方針は経営戦略と合致しており、水準・構成の妥当性も十分に担保されていた中で、制度の再構築という道程に「1億円」という壁が立ちはだかった。
「1億円の壁」に立ち止まる経営者たち
この「1億円の壁」は、金融商品取引法施行令の改正(2009年)によって生まれた。正確には、「上場企業の役員が1億円以上の報酬を受け取る場合、有価証券報告書における氏名・金額の個別開示を義務付ける」というものであり、その目的は「投資家が適切な投資判断を行うための重要な情報を提供する」ことにある。しかし、制度設計の現場では、社内外のステークホルダーから注目されることを回避したいがために、1億円を下回るよう調整されるケースが少なくない。いわば、「1億円」という数字が報酬水準向上の抑止力として作用しているのである。
なお、日本以外の国々では、例えば米国では役員報酬額上位5名について、英国・独国では役員全員についてそれぞれ報酬額の個別開示が求められており、報酬額の多寡は関係ない。報酬額によって個別開示の要否を線引きしているのは主要国の中で日本のみであり、「1億円の壁」は日本特有の慣行となっている。日本で1億円未満であっても自主的に開示している企業も見られるものの、その数はごくわずかだ。
法改正された2009年度は356人(220社)だった1億円超の報酬を受領した役員数は、23年度には1,120人(509社)まで増加している。しかし、全上場企業のうち90%弱では個人別報酬開示の対象者がおらず、「1億円の壁」を突破している企業は現時点で多いとは言えない。
本稿では、筆者が役員報酬コンサルタントとして直面してきたこの「1億円の壁」について、経営戦略に与える影響と、その壁を突破した企業の事例を提示する。
「1億円の壁」がもたらす2つの影響
経営戦略に「1億円の壁」が与える影響として、以下の2点があると考えている。
- 役員報酬制度の機能低下
一つ目は、業績連動比率の意図的な抑制に伴う役員報酬制度の機能低下である。日本取締役協会が2016年に発表した「経営者報酬ガイドライン(第四版)」では、基本報酬の水準が極端に高い場合を除いて、その水準を維持した上で、基本報酬:短期業績連動報酬:長期業績連動報酬の標準額を1:1:1とする報酬構成が推奨されている。
仮に、ある社長の現基本報酬が4,000万円と仮定し、上記の報酬構成へと変更した場合、総報酬の標準額は1億2,000万円(=4,000万円×3)となり「1億円の壁」を超えることになる。しかし、この社長が「1億円は超えたくない」と言えば、基本報酬を引き下げないことを前提とすると必然的に短期業績連動報酬・長期業績連動報酬の比率を抑制せざるを得なくなる。その結果、業績・企業価値向上に対する動機づけを弱めることとなり、「短期・長期的な経営戦略の実現を後押しする」という報酬制度本来の機能が損なわれてしまう。
- 企業全体の報酬競争力低下
二つ目は、社長報酬の意図的な抑制に伴う全社的な報酬競争力の低下である。社長・その他役職の報酬水準間のバランスを市場傾向に近しい形で仮置きした場合、各役職の報酬水準は以下のようになる。
図1. 各役職の報酬水準バランスイメージ
まず、抑制された社長報酬を頂点として上記係数に則った報酬水準を設定すると、外部競争力の問題が生じる。社長報酬が1億円であれば課長クラスで1,000万円を確保できるものの、社長報酬を7,000万円に抑えると課長クラスで700万円となる。この水準が市場から乖離しているならば、外部人材の獲得を困難にすると同時に内部人材の流出を招くことになり兼ねない。
次に、仮に社長報酬を据え置いた上で前段の問題を解決しようとすると、内部公平性の問題が生じる。例えば、課長クラスの外部競争力を確保すべく報酬水準を700万円から1,000万円まで引き上げると、課長・部長間の報酬差がわずか50万円(=1,050万円-1,000万円)となる。これでは役割の大きさの差異が報酬に適切に反映されないため、部長にとっては不公平感が募り、課長にとっては昇格意欲の喪失につながってしまう。
「1億円の壁」を突破した先輩企業に学ぶ
図2. 「1億円の壁」突破企業14社の概況
*1 1億円開示年度の前々年度から前年度にかけた成長率
*2 1億円開示年度の前年度業績
*3 TOPIX100・日経225構成銘柄で日経36業種分類が同じ企業のうち、社長総報酬開示額が1億円以上の割合
*4 1億円超開示後の株主総会における賛成率
*5 2022年度から純粋持株会社へ移行しているため、同年度業績は非開示
*6 1億円超開示後、株主総会の実施無
出所:各社有価証券報告書・招集通知・臨時報告書・HP、SPEEDAデータ、JPXデータに基づき筆者作成
この14社が「1億円の壁」を突破した背景には、以下3点のいずれかがあると整理できる。
1点目は、業績が好調であるケースだ。上記の表では、営業利益の前年比成長率が20%以上、もしくは時価総額の前年比成長率がTOPIXよりも大きくなっている13社が該当する。業績が好調であれば、報酬委員会にて「現在の報酬制度は当社の企業規模・価値に相応しいか」という議論が起こりやすい。
2点目は、水準ベンチマーク対象企業の報酬水準が大きいケースだ。上記の表では、売上高が1兆円以上、もしくは同業種企業における社長報酬が1億円以上の割合が50%以上となっている12社が該当する。売上高が大きければ同規模企業との、同業他社の多くが1億円を超過していれば同業種企業との報酬競争力の観点から、自社が1億円を超過することの説明がしやすい。
3点目は、経営戦略を見直すケースだ。上記の表では、中計開始年度が1億円開示年度と一致している5社が該当する。役員報酬制度の目的は経営戦略の実現にあることを踏まえると、中期経営計画等を刷新する際に現報酬制度が計画実現のドライバーになっているか点検すべきである。点検の結果、もしドライバーになっていないのであれば制度の見直しが必要となる。
この3点のいずれかを背景として、14社は「1億円の壁」を突破した。現に14社中7社は、1億円開示前年の株主総会で報酬上限の引上げまたは(株式報酬制度等の)新報酬制度の導入を決議しており、明確に制度変更している旨が読み取れる。
なお、1億円超過直後の株主総会における社長選任議案の賛成率は14社平均で89.3%(前年比-0.7%)であり、TOPIX500全体平均の90.1%と大差ないことから、「1億円の壁」を突破した企業に対する株主の反応は、背景・理由を説明できれば決してネガティブなものではないと推測される。
「1億円の壁」は開示ルール上の要件に過ぎず、経営戦略の障害であってはならない。報酬制度が自社の業績や市場水準、そして経営戦略と整合しているかを見直し、必要に応じてアップデートすることで、この壁は十分に突破できる。「先輩企業」は制度の見直しを通じ、経営戦略の実現に向けた一歩を踏み出している。
自社の制度は、経営戦略を後押しする設計になっているだろうか──
本稿が、制度のあるべき姿を見直す契機となれば幸いである。