新たな章のはじまり

クロスボーダーM&Aと人的資本経営の関係 

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01 8月 2025

人的資本経営の潮流とクロスボーダーM&Aの課題

昨今、日本企業において人的資本経営の潮流は加速しており、非財務情報の開示義務化も進展している。しかしながら、人的資本経営の議論は平時の人材活用に偏重しがちであり、M&A、特にクロスボーダーM&Aの文脈で語られる機会は限定的だ。クロスボーダーM&Aにおいては、国ごとに異なる制度や慣習を踏まえた人的資本対応がディールの成否に大きく影響するため、買い手が考慮すべき人的資本経営の論点を整理する必要がある。

M&A検討フェーズでの人的資本の検討開始のタイミング

M&Aプロセスの初期段階では企画部門や財務部門、事業部門で検討が開始されることが一般的である。この段階では事業計画や財務に焦点が当たり、人的資本に関する議論はそれほど活発に行われてはいないケースが多いのではないだろうか。実際に、マーサーとTransaction Advisors Instituteが実施した調査 によれば、買い手の95%が案件実行前に人的資本を考慮しているものの、ターゲットスクリーニングや買収目的の検討時に人的資本の検討を開始しているのは41%にとどまり、過半数はデューデリジェンス中から検討を開始している。すなわち、買収目的の検討時には財務数値や買収価格など、人的資本以外の論点に注目が集まり、具体的な数値に落とし込みにくい人的資本の議論が進まない現状がある。

買収目的における人的資本の位置付け

このような状況下で、買収目的における人的資本の獲得をどのように位置付けるかを再考する必要性が問われている。買収目的における人的資本の位置付けが不明瞭な場合、買収後に獲得した人材を人的資本としてどのように自社の事業成長に活用するかという点を検討できないままデューデリジェンスに臨むこととなり、企業価値創造プロセスの源泉である人的資本の維持・活用に向けた対応が不十分となるリスクが生じる。

いったんデューデリジェンスが始まると組織改編や人員整理などの人員を「コスト」として見る力学が働き、人的資本としての人材活用の検討が難しくなるケースが多い。このため、人的資本の観点を買収目的に確実に位置づけることが、ディールプロセスの中で人的資本の議論を後回しにしないためにも重要となる。特に、買収後の組織設計・ガバナンス方針、経営陣や主要従業員の配置計画、人事・報酬制度の設計方針といった点は、事前に確認しておくべき論点である。

M&Aで獲得した人的資本の活用の例

ここでM&Aで獲得した人的資本をいかに活用すべきかについて考察する。日本企業がクロスボーダーM&Aにより国外の上場会社の株式を100%取得する際に、経営陣の活用が重要な論点となる。経営陣は、リテンション対象として買収前とほぼ同様の組織形態やガバナンス体制を維持したスタンドアロン経営が前提とされるケースが多い傾向にある。このような場合、非上場化に伴う投資家対応など一部の業務を除き、経営陣の職務内容に本質的な変化は生じない。しかし、このような運用では、M&Aによって獲得した人的資本を十分に活用しているとは言い難く、経営陣を対象会社にとどめておくだけでは、人的資本の潜在的価値を最大限に引き出すことができていないとも言える。

特に当該M&Aにより自社全体の大変革を企図する際は、獲得した人的資本を単なる投資先の経営にとどめず、自社全体の成長に有機的に取り込む姿勢が求められるのではないか。具体的には、対象会社の経営経験を活かし、当該国・地域の統括拠点や日本本社の経営陣に登用し、全社的な成長へとつなげることも検討されるべきである。対象会社の経営陣の知見や経験は人的資本として大きな価値があり、自社の価値創造プロセスに大きく貢献する。それは、買収による対象事業の獲得以上の意味を持つものとなる。

M&Aを通じた人的資本のさらなる活用

近年、日本企業においても対象会社から経営陣を登用して経営体制が抜本的に変革される事例は増加傾向にあるが、依然として一般的とは言えない。一方で、M&Aを契機に自社の変革を目指すのであれば、人的資本の活用方針について、デューデリジェンスプロセスに入る前に十分に検討しておくことが望ましい。M&Aにより獲得した人的資本を対象会社に留めず自社全体の成長の源泉とするためには、初期段階から人的資本の観点を買収目的に織り込んでおくことが不可欠である。次のM&Aを検討する際には人的資本にも着目して買収目的を検討してみてはいかがだろうか。
著者
立花 俊介
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