日本経済の停滞がもたらした海外派遣者処遇の不協和音
03 2月 2025
「生活が苦しい」という海外派遣者
「海外派遣者から生活費が足りないという声が上がっている」
よくクライアントから相談される内容だ。多くの場合、アルゼンチンやトルコなど急速なインフレにより、手当額を決定した時期から現在までに物価が上昇し、結果的に生活費が不足するケースである。このようなケースでは特別な措置を講じるのも一案だろう。しかし中には、アメリカやヨーロッパなど先述した国ほどインフレが高くない国でも同様の声が上がることがある。その内容を紐解くと、慣れない環境で生活が大変だ、など根本的な不満を生活費が足りないという言葉に置き換えているケースもある。このような場合は生活費の手当を増やすのではなく、ハードシップ手当やウェルビーイングに配慮した福利厚生などを検討するのが筋だろう。しかし、ここではもう少し「生活費が足りない」という部分を掘り下げたいと思う。
購買力補償方式の盲点
海外派遣をおこなっている日本の企業においては購買力補償方式(Balance Sheet Approach、以下BSA)を導入していることが多い。BSAとは、海外派遣によって経済的な著しい損失や利益が発生しないよう、本国と同等の購買力を派遣先でも補償するために、派遣先でも(現在の)日本と同様の生活を送れるように必要な手当を支給する制度である。BSAは海外派遣者処遇では一般的かつ洗練された方法と言ってもいいだろう。しかし、この「(現在の)日本と同様の生活を送る」という長所は懸念点にもなりうる。
ここでは、数式を用いて説明したい。日本における一人当たり消費額(一人当たり名目家計消費額)は、一般物価(消費者物価)PJと一人当たり消費量(一人当たり実質家計消費額)CJより
日本における一人当たり消費額=PJ×CJ (1)
と表すことができる。同様に派遣先N国における一人当たり消費額は、現地の一般物価と一人当たり家計消費量をそれぞれPN、CNとすれば、
N国における一人当たり消費額=PN×CN (2)
となる。ここで、日本からN国へBSAに基づいて社員を派遣する場合、その社員のN国での消費額は
N国へ派遣された派遣者の消費額=PN×CJ (3)
と表すことができる。つまり現地の一般物価PNと日本の一人当たり消費量CJの積となる1。BSAは(1)式に日本とN国との物価差PN/PJを乗じて(3)式を導出しているのだ。これにより、派遣先のN国でも日本での生活が担保されるように設計される。しかし、ここで1点疑問が生じる。物価差は調整されても、一人当たり消費量の格差CN/CJはどうなるのか?
日本経済の低迷がもたらした海外における相対的豊かさの下落
まず、一人当たり消費量の格差については、国際比較の前に過去との比較の方が理解しやすい。例えば、日本の1970年における一人当たり家計消費額は34.5万円ほどだったが、2022年には249万円と7.2倍に増加している2。一方で、消費者物価指数(CPI)はこの期間では3.3倍となった3。この差は物価の影響を除いた一人当たり家計消費額の変化であり、先述した言葉で表せば日本の1970年から2022年における一人当たり消費量の格差(=2022年のCJ/1970年のCJ)である。日本人は1970年から2022年にかけて2.2倍(=7.2÷3.3)購買力が向上した、誤解を恐れず言えば、その分豊かになったのだ。もし、今の生活を1970年時点で再現すれば、その当時では随分裕福と見られただろう。
さて、国際比較に戻ると、およそ30年前の1995年では、日本の一人当たり消費量(一人当たり実質家計消費額)は世界では14位だったが、2022年では29位にまで順位を落としている4。この期間、日本は1.9万ドルから2.2万ドルと1割ほど増加したが、両時点で1位である米国は3万ドルから5万ドルと6割以上も増加している。つまり、日本は絶対的な購買力は上昇してきたが、相対的には購買力を落としてきたと言える。
これを派遣者の視点で考えるとどうなるか?1995年時点では、日本は世界でも比較的高い購買力を有していたため、BSAの下では派遣先の国民よりも相対的に高い購買力となるケースが多かった。すなわち、購買力自体は日本の時と変わらなくとも生活実感として豊かと感じることケースが多かっただろう。
しかし、現在日本の相対的購買力は低下している。そのため、日本よりも購買力が高い国への派遣が多くなり、日本と同様の購買行動で生活を送ったとしても、現地の国民の方が豊かな購買行動であれば、相対的に貧しく感じるかもしれない。また、派遣者が現地の国民や現地社員の一般的な生活様式を模倣するようになると、冒頭に挙げた「生活費が足りない」という声につながる可能性もあるだろう。
図:1995年および2022年における一人当たり実質家計消費額 上位50国・地域
3 総務省消費者物価指数より参照
4 世界銀行 “World Development Indicators”の実質家計最終消費支出額(2021年基準価格, PPP換算)と人口から算定
海外派遣者処遇の新しい可能性
今後日本経済は急激に成長するかもしれない。しかし、過去20~30年から外挿的に考えると、日本の相対的購買力は今後も低下するだろう。これまで通りBSAに基づいた海外派遣者処遇では派遣者の生活は保持されても、貧しくなったと感じる派遣者は増えるかもしれない。
対処方法の一つとしては、改めて派遣者にBSAのコンセプトと長所を説明して正しく理解してもらうことは必要だろう。BSAは優れた制度である。特に購買力が日本より低い国へ派遣される場合は、購買力が保証されている長所を派遣者は感じられるはずだ。また、生活水準が変わらないからこそ帰任後の日本での生活もスムーズに移行できる。一方で、国内および派遣地域間における給与の公平性も担保される。
しかし、BSAのままでは、今後も購買力が日本より高い国の派遣者から理解を得ることは難しいかもしれない。その場合は、現地の給与体系に則るホストベースアプローチが有効な選択肢となるだろう。ホストベースアプローチには、現地社員と全く同じ待遇をする方式や家賃や教育費などは別途補助するといった方式などいくつか種類はあるが、いずれにせよ職務に応じて現地の水準に沿った給与水準が決められる。これにより、現地で同等な職務の社員と同様の生活を送れるようになる。もちろん、そこには日本への帰任後に生活水準が変わってしまう、また国内社員や他の派遣地域の派遣者との公平性が崩れるなどの懸念はある。しかし、優秀な社員ほど転職が容易な現状を踏まえれば、今後さらに海外進出が重要となる日本企業にとっては、内部公平性よりも外部競争力を重視した給与体系により、リテンションリスクに対処する施策の検討が必要となってくるかもしれない。