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日本企業の海外医療保障の落とし穴——「国内と同じ」が招くリスク 

20 10月 2026

海外で働く赴任者にとって、医療保障は業務を継続するための生活・業務基盤であり、企業にとっても、赴任者の健康管理はグローバル事業を推進するうえでの前提条件となる。

現在、多くの日本企業は「国内社員との均衡」を考慮し、日本の健康保険を基本としつつ、民間損害保険の「海外旅行保険」を組み合わせた制度設計を行っている。日本から送り出している赴任者と国内社員との公平性を考慮しての運用ではあるが、現地では実務上の課題がいくつか存在する。

海外医療における費用負担と精算の構造

まず、海外旅行保険は短期の旅行者への補償を目的としている保険であるため、海外に長期滞在をした際に発生する歯科治療、既往症(持病)の継続治療、妊娠・出産・不妊治療、予防接種や健康診断などの予防医療は、保険の補償対象外となるケースが多い。そのため、これらは日本の健保(海外療養費制度)へ申請して還付を受ける形となるが、給付額は現地の実際の支払い額ではなく「日本で同等の治療を受けた場合の診療価格」を基準に計算される。
 

【例:医療費が高額な国の私立病院で受診した場合】

現地の実際の支払額: 10万円
日本での同等治療の査定額: 1万円
健保からの支給額: 7,000円(査定額の7割)
社員の自己負担額: 9万3,000円(実質9割以上が自己負担)
 

上記のとおり、医療費が高額な地域の私立病院等で受診した場合、現地での実額と日本の査定額の差額は社員の自己負担となる傾向があり、さらに窓口で全額を立て替えて支払う必要があることや、海外療養費の還付精算完了までには数か月を要することを踏まえると、健保と海外旅行保険を併せた運用では、赴任者に金銭的・手続き的負担が発生しているのが実情であると言えるだろう。

赴任者の年代構成変化と「自己負担・手続」が及ぼす影響

こうした制度構造は、現在の海外赴任者の「年齢層」や「健康状態」と重なることで具体的な課題となって現れる。

日系企業における赴任者は従来30~40代が中心層であるものの、昨今は若手社員の海外赴任者のなり手不足や赴任期間の長期化、ベテラン層の再派遣などにより、50代の赴任者も増加しており、全体として高齢化の傾向にある。年齢層が上がるにつれ、高血圧、脂質異常、糖尿病などの持病を抱え、継続的な通院や処方薬を必要とする割合が高くなる。また、年代を問わず赴任先での予防接種や健康診断、歯科治療といったニーズも当然ながら発生する。

しかし既往症や予防医療、歯科治療は海外旅行保険の対象外となることが多く、通院のたびに現地の医療費を一時立て替え、英文の領収書や診療明細書を取得・翻訳し、健保や会社へ還付申請を行う運用となる。結果として、費用負担の発生と申請手続きの手間により、帰国まで受診を遅らせたりする「受診控え」の行動が生じるケースが発生することがある。

企業に求められる安全配慮義務とリスク管理

企業として海外赴任者および帯同家族に各種制度を用意していたとしても、運用のプロセスが受診の障壁となり十分かつ適切なリスク管理が出来ていない状況を引き起こすことがある。

それゆえ、海外赴任者の受診控えや持病の管理不足により、現地で病状が悪化して脳卒中や心筋梗塞などを発症した場合、長期入院や医療チャーター機による緊急医療搬送が必要となるケースも想定される。

海外赴任者の重症化もさることながら、ここで併せて考慮すべき点は、健保が給付するのは医療行為そのものの費用であり、チャーター機の手配費や医師・看護師の同行費などの「緊急医療搬送コスト」は、日本の健保の給付対象外であることだ。

治療費と緊急医療搬送費が同時に発生した場合、対応費用は数千万円規模に達する可能性があり、これを個人の立て替えや負担とすることは困難であり、企業の費用負担や手配の判断が求められる。

また、労務管理における「安全配慮義務」の観点からも留意が求められる。万が一、赴任者の重症化をめぐる事案が生じた際、企業が「国内と同等の保障制度を適用していた」と主張しても、現地の医療コストや免責領域、手続きの負荷による受診控えの実態を知りえる立場にありながら十分な対策を講じていなかった場合、企業としての配慮や対応の妥当性が議論の対象となる可能性がある。感情的な議論ではなく、労務管理におけるリスクマネジメントとして制度の網羅性を把握しておくことが重要である。

自社として備えるべき保障範囲の整理

海外赴任者の医療保障を考えるうえで重要なのは、国内制度との一律な比較だけで判断するのではなく、「自社としてどこまでのリスクを会社がカバーし、どこからを自己負担とするか」という基本方針を整理することである。

日本の健保や一般的な海外旅行保険を導入していても、既往症の継続治療や予防医療、緊急医療搬送といった領域では、給付対象外や自己負担が発生するという構造上の隙間が存在するが、これらの領域において、現行の制度で十分とするのか、あるいは会社として何らかの補填やサポートを検討するのか、その境界線を明確にすることが求められる。

医療保障の検討は、単なるコスト議論ではなく、海外で働く社員の安心感や企業の労務リスク管理に直結するテーマである。国内基準の当てはめにとどまらず、自社の保障制度が現場の実態に照らして十分機能しているかを定期的に確認し、会社として備えるべき範囲を検討していく姿勢が重要となる。

著者
蟻川 弥生
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