健康保険の弱体化に、企業はどう向き合うべきか。 従業員の「安心」を支える医療制度の伝え方
23 3月 2026
近年、国民の「手取りを増やす」ための政策や税制見直しの議論が注目を浴びている。賃上げの機運を受け、額面の給与が増えても、それ以上に税負担が増えることで「生活のゆとりが実感できない」という声は根強いからだ。先の衆院選挙でも争点となったように、今の現役世代にとっては、手取りを増やし、可処分所得をいかに確保するかが関心事となっている。そのための方策として、税負担や給付金だけではなく、社会保険料負担も併せて検討すべきという意見も出てきている。
本稿では、社会保険料の内訳において大きなウェイトを占め、日々の生活の中で利用する機会が多い健康保険に焦点を当ててみたい。
健康保険を支える「相互扶助」の仕組みと構造的課題
私たちが日常的に利用している健康保険の原点は、加入者が保険料を拠出し合い、万が一の際に支え合う「相互扶助」の仕組みである。これは、単に同世代で助け合うだけではなく、現代においては、現役世代が保険料を通じて高齢世代の医療費を支えるという、世代間の支え合いによって成り立っている。
会社員の場合は、勤務先の規模や業種によって「協会けんぽ(全国健康保険協会)」、企業が独自に設立した「健康保険組合(単一健保)」、そして、同業種が集まる「総合健保組合」など、いずれかの公的医療保険に加入しており、保険料は労使で折半とし、従業員負担分は毎月の給与から控除される。しかし、この給与控除の仕組みが定着したことで、多くの加入者にとって健康保険は「当たり前にある公共サービス」のように認識されている側面が否めない。年末恒例のお笑い賞レースで脚光を浴びた若手芸人が「保険料という名の税金ではないか」と皮肉を交えて語ったフレーズに共感した方も多いのではないだろうか。
ご存じの方も多いと思うが、少子高齢化の進展により、この仕組みは厳しい局面に立たされている。健康保険組合連合会のデータによると、2025年度は約8割の健康保険組合が赤字に陥る可能性があるという推計もある。
特に、現役世代が負担する高齢者医療への拠出金の膨張は深刻な問題である。これは、65歳から74歳までの前期高齢者と75歳以上の後期高齢者の医療制度を支えるために各健保組合が拠出するもので、現在、現役世代が納める保険料の約4割がこの支援金に充てられている。こうした避けることができない負担増も、保険料と保障内容のバランスを不安定にさせている大きな要因の一つとなっている。
2026年制度改定のポイントと今後の見通し
2026年においては、協会けんぽの保険料率が34年ぶりに引き下げられる見通しである。具体的には、全国平均の保険料率を前年度比0.1ポイント減の9.9%とする方向で調整が進んでいる。 制度を維持するために保険料率の上昇が常態化していた中で、これは意外なニュースであった。
この引き下げの背景には、ここ数年の賃上げによって労働者の給与水準が上がり、結果として健康保険の財源となる保険料収入が想定以上に増えたという事情がある。
一方、自営業、そして勤務先の健康保険の適用外となる非正規労働者などが加入する国民健康保険に目を向けると、状況はより厳しい。国民健康保険は加入者の年齢層が高く所得水準が低いという課題を抱えており、多くの自治体で保険料の上昇が長年続いている。2026年度も、高所得層が支払う保険料の年間上限額(賦課限度額)が引き上げられる見込みであり、負担増が止まらない状況にある。
協会けんぽの保険料引き下げのニュースを手放しで喜ぶのは早い。同時期には「こども・子育て支援金」の徴収が開始され、介護保険料の上昇も続く見込みだ。現在は、表面的な保険料率低下が、必ずしも現役世代の「手取り」増に直結しない、複雑な状況にあるといえる。
さらに、高額療養費制度の自己負担限度額の見直しや、市販薬で代用可能な医薬品の保険適用制限などが議論されるなど、やはり、今までの手厚い保障内容が緩やかな縮小へ向かっている。こうした動きは、加入している健康保険組合や国民健康保険を問わず、公的医療保険制度全体に波及するものである。支払う保険料と受け取る給付のバランスをどう整え直すかが、先送りのできない大きな課題となっている。
健康保険を取り巻く今の状況は、現役世代の「手取りへの関心」と、少子高齢化という「社会構造の現実」が、複雑に絡み合っている状態だといえる。こうした中、私たちは負担の重さに注目しがちだが、その対価である「保障」の実態をどこまで理解できているだろうか。
「手取り」への関心と、意外に知られていない「保障」の実態
「手取り」を左右する要因として、保険料の変動に従業員が関心を寄せる一方で、その対価として得られる「保障内容」には十分な目が向けられていないのが現実ではないだろうか。
実際に自身が病気やケガをした際にどのような給付が受けられるのかを正確に把握している従業員は少ない。これは全国健康保険協会が2019年に実施した「加入者の医療保険制度等の認知に関する調査報告書」からも、保険料の使われ方や制度内容について、加入者の理解が十分に進んでいない現状が読み取れる。例えば、病気やケガで働くことができなくなった際の傷病手当金、さらには出産手当金や限度額適用認定証といった現金給付に関する制度などである。
その背景には、日本の国民皆保険制度という仕組みが関係しているのではないかと筆者は考えている。日本では就職すれば自動的に特定の健康保険に加入することになり、自ら保障内容を選択するプロセスが存在しないため、主体的に理解しようとする動機が生まれにくい環境が存在するのだ。
だが、ここで一度立ち止まって考えてみたい。従業員が本当に守りたいものは「手取り額」という数字ではなく、その先にある「保険料を支払うことで享受できる保障」ひいては、安心して暮らすことができる日々の生活そのものではないだろうか。
制度改定を機に、自社の制度価値を正しく伝える
会社を通じて加入している健康保険組合の医療保障、もし、その価値や仕組みを従業員が正しく把握できていないのであれば、会社側からその保障内容を丁寧に伝えることを、ぜひ試してほしい。なぜなら、医療保障に関する情報を可視化し、万が一の備えを伝えること自体が、従業員の安心を考慮しているという企業の姿勢を示すことにつながるからだ。
自社の制度を周知する際は、まず、健康保険はどの会社に勤めていても保障内容は同じというイメージを持たれやすい点を意識しながら、自社が提供する医療保障の全体像を明確にしたい。なぜなら、加入する健康保険組合によっては、保障内容に差があるからだ。自社で設立した単一健保や、総合健保組合は、法定の給付に加え、上乗せで給付を行う「付加給付」を提供している。例えば、医療費の自己負担上限が、法定制度よりもさらに低く設定される「一部負担還元金」などがその代表例だ。
さらに、健康保険以外にも、共済会による手当や団体医療保険、GLTD(団体長期障害所得補償保険)などが健保を補完し合っている。こうした制度や保障を、法定外の福利厚生として企業が提供している場合もあり、これらはいわば「企業独自のセーフティネット」と言える。
こうした自社ならではの保障を従業員に届ける際、以下の工夫を凝らすことで、その伝わり方は大きく変わる。
包括的な制度の提示: 健康保険だけではなく、共済会、団体医療保険、GLTDなどの会社独自に提供する制度について、個別に説明するのではなく、これらが網の目のように組み合わさって生活を支える包括的な保障制度を「企業独自のセーフティネット」として伝え、自社ならではの安心感を強調する。
多角的な周知: 一方通行のメール通知のみでは従業員の記憶に留まりにくい。オンライン説明会や視覚的なパンフレットのイントラネット掲載など、情報に触れる機会を多角的に設けることが望まれる。
具体的なシナリオの活用: 制度や保障内容の羅列をしても、その価値は伝わりにくい。「もし入院して30万円かかっても、当社の制度を利用すれば最終的な自己負担は〇円で済みます」といった具体的なシミュレーションを提示することが有効である。
保険料の負担と保障内容のバランスが刻々と変化する時代において、企業に求められるのは、単に自社の医療保障を整えることだけではなく、その付加的な保障の価値を正しく理解してもらう努力である。
従業員が、自身が働いている企業の制度によって「自分の生活が守られているという実感」を持つことは、組織への信頼感、ひいてはエンゲージメントを育てる一助となるはずだ。